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OMODAKA・水野勝成伝・鬼日向原作:岩倉 豪  編集:藤田 恵介

彼は武蔵の憧れを具現した存在

時は戦塵万雷の安土桃山時代、時代は戦国。
その戦国末期から江戸幕府までの時代を代表する
長篠の合戦
関が原
大阪夏の陣と冬の陣
生涯最後の戦場島原の乱
数々の戦場で武功を上げ、後に鬼日向とも呼ばれるほど猛将"水野勝成"
徳川家康の命令に反し小牧・長久手の戦いの際に一軍の大将でもあるにも関わらず自ら一番槍を挙げ軍令違反を咎められたことや、さらに自らの不行状{を父"水野忠重"に報告した家臣を斬りすて出奔し、怒り狂った父によって奉公構え(事実上の他家への仕官禁止)と、とにかく気性が激しく、そして戦場での働きもめざましく、常に槍をかまえ騎馬にまたがり、常に軍勢の先頭で豪勇を振るった「日向守・水野勝成」

この水野勝成と言う御人、"いくさ"ごとだけに限らず、徳川が代替わりの時に徳川秀忠から賜った福山藩の城下町の建設と産業育成、それまでは、おおむね湿地帯であった福山城周辺を治水工事や新田開発を積極的に行い発展の礎を築いた。

特に新田開発は後の五代藩主の勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していたなど戦場以外の他方面で幅広い実績を生涯行い、勝成の偉業を後世に残す。

大坂夏の陣では徳川家康に任された大和口方面軍の先陣の大将「水野勝成」、夏の陣の水野軍の総陣容の記録に武蔵の名がある。

『総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由士(さむらい)大将は中山外記、御供騎馬武者二百三十人の中「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があり(作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重のち勝俊)』

大坂の夏の陣、水野日向守勝成の軍勢に武蔵が徳川方水野軍に属したと「大坂御陳之御供」にも記録され、それは後世に有名な剣豪・宮本武蔵その人

大坂夏の陣に記録される武蔵野姿は、陣中に三間ほどのさし物にと書れた言葉は

「釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者」
(釈迦は仏法の知者たり、我は兵法の知者たり)

武蔵は三間ほどのいうから五メートル余の大指物をと書した旗を立て、仏教開祖の釈迦と自分を並べて称する、戦で我ここにありと自信満々たる壮年武蔵の姿

大阪夏の陣の記録『黄雑録』に記された大和郡山の戦いで、橋の上に陣取った宮本武蔵の戦いぶりを記した言葉に

「よき覚ハなし、何方にて有れん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏れる様子、見事なりと、人々誉れる」

と記され、橋の上に陣取って、寄せ来る敵の雑兵へ先端に釘を打ち込んだ大木刀を振りかざし、バッタバッタとなぎ伏せ剣豪の名に恥じない戦いは、剣豪武蔵の面目躍如、あまりの見事さに、皆口々に褒め称えたと言っている。

これは宮本武蔵が京都・吉岡一門と戦った一条松下がり坂を戦場で再現させ、一人の剣豪が戦場で多人数と戦う橋の上に陣取って、寄せ来る敵の雑兵へ大木刀を振りかざし、バッタバッタとなぎ伏せる戦闘場面は、剣豪・宮本武蔵、兵法者・宮本武蔵の真の姿であろう。
その武蔵の活躍も軍勢を操る水野勝成の戦術の一部であり、戦場で上策を練り、縦横自在に軍勢を操り、その軍勢の先頭にて馬上で槍を振るい敵を屠り首を馬の蔵に下げ戦場をかける姿は武蔵の夢の具現

大坂夏の陣のあとに武蔵は小笠原家に五百石で召抱えられ仕官の際し、条件として三千石の家老職以上にしか認められない鷹狩りを認めてもらう。
山野を馬で駆け、戦場で消耗する変え馬を所持を許され、戦場で戦う武将の能力を磨き、戦場で使う馬上武具などを開発し続け、常に戦場で戦う事を意識した。
武の道だけではなく水野勝成と同じように絵や文と芸能面での多芸の才能を示し武将たる嗜み(タシナミ)も学び続けた。
晩年武蔵は島原の乱で再び75歳を過ぎてもなお戦陣で采配を振るう水野勝成と共に戦い、晩年なおも武将として戦う勝成を姿を見て武蔵は何を思ったのであろうか?

乱世の武将を夢見た宮本武蔵は、終生、馬上で活躍する水野勝成の影を追い続けたのかもしれない。

武蔵が刈谷水野家より大坂陣に出陣することになった経緯、すなわち水野勝成との出会いがいかなる由縁によるものかはいずれ物語で語るとして、夏の陣での出会いが、このことが武蔵の後半生に三木之助や伊織などの武蔵の養子が徳川譜代雄藩へ出仕させ、剣の道は弟子に任せ武蔵自身は常に束縛の無い自由の境遇に置き機会あれば武将をと夢み、合理的な兵法の道を極め、兵法を極め、剣術を極め、現代でも世界的に有名な『五輪書』への道に繋がっていったのかもしれない。

身の丈(180センチ)、乱世梟雄・織田信長を討った逆賊・明智光秀のの官職「日向守」を自ら受け入れ、徳川家康から直々に明智光秀所用の熊毛の朱槍を下賜、名将日向守(光秀)の『武功にあやかれ』と徳川家康から承う。

日光東照宮に祀られる「徳川二十八将」の一人「剛勇無双の鬼日向」乱世を駆け抜け数々の物語を語られた男の一代記の始まりにてございます。

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[桶狭間合戦]
さてさて水野勝成の物語を語るに安土桃山時代末期の模様を語らなければなりませぬ。

水野家は尾張から三河にまたがる大領主。
西三河(現在の岡崎周辺)を支配していた国衆である松平氏が若い当主の相次ぐ変死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれ、現当主の松平元康(徳川家康)の生母は水野家、松平(徳川)家と水野家は戦国の世でありがちな姻戚関係にあったが、現在、松平元康は今川義元の軍勢として織田領攻略の軍の先方の武将。
一方の水野氏は織田家の外様として信長の尾張統一までの間の今川家の攻勢を受け戦っており、水野家の運命は駿河・今川義元と尾張・織田信長とのあらそいに翻弄されておりました。

今川氏は、八万太郎義家の孫、足利義康を祖とする。義康から義兼、義氏と続き、義氏の長子である長氏は吉良氏となり、この長氏の次子国氏は今川氏を名乗る、これが今川氏直接の祖となり九代目が今川義元

今川氏は数ある戦国大名の中でも名門中の名門、今川氏は南北朝の争乱期には常に幕府側にあって戦い。
北朝方の武将として知れた今川了俊は同属であり歌人としても有名、『難太平紀』や多くの歌論をあらわした文人・今川了俊を輩出し文化・家柄、そして南北朝期に遠江・駿河の守護職を得、さらに戦国期になり松平氏の暗殺事件を機に東三河も所領とし堂々たる戦国大名として君臨、戦国末期。
力のある大名は京都に上洛し天皇から勅命を頂き、もう名ばかりの存在となた室町幕府に代わって天下に号令をかけ天下統一をと戦国武将の誰もが夢見ることと・・・
そして駿河国守護の今川義元が戦国大名として成長し京都へと兵を動し障害となる尾張攻略を仕掛けた。

今川義元は駿府を本拠に駿河・遠江に領国を形成し
甲斐国の武田氏
相模国の後北条氏
と甲相駿三国同盟を結び、広報の憂いを取り除き西三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきた。

当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって
天文11年(1542年)の第1回の小豆坂(オズザカ)の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。
しかし天文17年(1548年)の第2回の小豆坂の戦いでは今川方が勝利を収め、この戦いの後に織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退し信長は対策の追われ、この危機に熱田から一里東の鳴海城に山口佐間介を城主に据えた。

山口佐間介は武辺者で才覚と野心があり、織田方の情勢不利を悟や、今川勢を城内に引き入れ謀反を起こし、信長方だった沓掛城・大高城も山口佐間介の調略(裏工作)により乗っ取り、今川方は終攻略の足がかりとして駿河から大高城に岡部五郎兵衛が城代として派遣、また兵も増員され織田信長の清洲城の喉下に槍を突き入れる形になる。

そこで信長は今川方の織田領に食い込んだ沓掛城・大高城・鳴海上の三砦の対抗策として付き城の包囲作戦に出た。

まず鳴海城の周囲を取り巻くように信長は
北に丹下砦
東に善照寺砦(ゼンショウジ)
南に中島砦
三取りでを築き、尾張戦線後方の沓掛城との連携を奪い圧迫し、次に鳴海城と大高城の間を遮断し連携が取れぬように
鷲巣砦(ワシズ)
中嶋砦
の二砦を築き敵の連携を遮断、さらに大高城の南側の守りとして
向山砦
正光寺砦
氷上山砦
の三砦を築き大高城・鳴海城を包囲し今川方の尾張攻略に対抗していた。

織田信長は付き城の包囲網で次第に逆襲に転じ、大高城・鳴海城が信長の軍勢に包囲され沓掛城との連絡を遮断され孤立、補給が上手くいかず兵糧攻めの危機にあると知らせを聞き、今川義元が尾張救援と攻略を兼ねて軍勢を進めます。

沓掛・大高・鳴海の3城以南の尾張は知多半島地域であり、愛知用水開通以前の時代には農作物を作るに向かない不毛地帯、濃尾平野の穀倉地帯であるそれ以北の地う域とは経済的格差が大きく面積としては今川方が尾張の南半分を制圧した事になっているが、経済力では尾張全体の数分の一にも満たなく支配地域にしても経済的にも得るものが無く、攻め取るなら濃尾平野を含む尾張の支配権を今川義元は奪取し経済的にも織田信長の息の根を止めたい。

この情勢の下、永禄3年(1560年)5月12日、「東海一の弓取り」今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、譜代の家臣を軍勢に尾張を目指して東海道を西進し今川方諸城の終攻略の中心地の沓掛城に5月17日に入る。

1560年5月18日(6月11日)10時頃
織田軍は鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に入っておよそ2,000人の軍勢を整えた。
一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500名余りは城外に討って出て白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死に。
鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功、また大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進んだ。

1560年5月18日(6月11日)11時〜12時頃
一方の織田軍は、善照寺砦より出撃、鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し東南への進軍を開始。

1560年5月18日(6月11日)夜
夕刻、今川義元の命令で松平元康(徳川家康)が朱武者で先駆けをし三河勢を率い先行させ苦戦が続く大高城に兵糧を届けさせたと報告が入り、清洲城に丸根砦の佐久間大学と鷲津砦の織田玄蕃から今川勢総攻撃の気配ありとの注進、知らせを受けた清洲城の織田家家老衆達は血相を変え目を釣り上げ

「かくなる上は籠城して頑張るしかない」
「全軍を集めて篭城したほうがよい」

などと議論、家老衆の言葉を聞いても無言の信長に苛立ちが募り、そして夕食後信長は諸将と世間話をし何も話さず、平静な表情でただ一言

「もう夜も暮れた。みな帰れ」

信長はそう告げ家臣達は憮然と立ち去り家臣達は口々に

「殿、何も言わず、いったい何をお考えか?」
「運の末には知恵の鏡も曇る・・・とは、こういう事を言うのだ」

不満そうに立ち去っていく。
信長側近は、「これでよいのですか」と問いかけるが、一目側近を見ると

「策は秘すれば価値があり、口にすれば策が漏れる。みな時が来るまで待つがよい」

信長は不適に笑いながら『酒を部屋にもて』言うと自分の部屋に引き込んでいき信長側近は憮然とした顔で

「殿はいったい何を狙い? 何をお考えじゃ?」

それは信長は当然家臣の中に間者(スパイ)や裏切り者がいる事を把握しており、重臣たちが口々に籠城を叫んでいたが、信長は口を開かず、そして動かず、重臣達の会議を黙って意見を聞くだけ、優柔不断の構えを見せ裏切り者を油断させた。

部屋に引きこもり明かりを焚き一人呟く

「まだ、誰も信用ならん」

家臣達の大方は今川方とぶつかれば

「到底勝ち目なし」

と見た織田家臣は次々と今川方に寝返り、国境沿いの二つの城は今川義元の手に落ち家臣に動揺が広がっており

「織田を見限り、今川に付くべし」

このようなに裏切り者と潜在的に裏切る物が続出し家臣達の足並みが乱れる。

このような危機に際して織田方の危機に重臣の足並みが揃わぬか?それは桶狭間の戦いの一年前まで信長が織田家当主になるまで骨肉の争いを戦い抜き、まだ支配権を確立して一年あまり、家臣の中にもいまだに反信長勢力が、そこで信長は裏切り者を利用する策に出た。

数年前から今川は織田の領地を突破するのに備えて織田家中に間者(スパイ)を潜入させ様子を探らせており、対して信長はその間者(スパイ)を発見するもしばらくはそのままにしておき、この状況を逆手に取り信長は寝返った家臣達が書いた、これまでの手紙や書類を出来るだけ集めさせ、その腹心の部下に習得させ筆跡を真似て偽の手紙を書くよう命じいぇいた。

そして時期を見て捕らえ密かに処刑。代わりにその筆跡を真似た偽の報告書を数年にわたって今川の元に届けさせ情報を情報操作を、偽の手紙に今川方の様子を信長に知らせるかのような内容が書かれてあり、それが今川方に渡るように策略、文面は
「寝返った反信長派は密かに今川義元と通じ機を見て裏切る用意もありと」
今川方に伝え離間の計に出た。

信長の腹心の一人である森可成を商人に仕立て、義元本拠である駿府城下へ潜り込ませた。そして一つのうわさを流す。
「佐馬介(山口教継)は偽って今川のお屋形さまに味方している。お屋形さまが尾張へ攻め入れば信長と計って挟撃する手はずを整えている」
義元はこの根の葉もない流言を聞くと山口親子を駿府へ呼び殺害する。
「忠節の褒美なくして、無情親子共に腹を切らせ候」
また織田勢の城の一つを預かる戸部新左衛門が、今川と通じ、信長の動向や尾張の情勢を逐一、今川方に漏らしていると事実が判明、信長は自体の報告を受け、密かに新左衛門の書状を入手し筆跡を真似させ、商人に仕立てた森可成に
「密かに今川義元と通じ機を見て裏切る用意もありと」
の書状を入手したと今川義元に届け戸部新左衛門を成敗。

寝返った織田方の家臣は、じつは、いまだに信長に通じていると思わせ、寝返った織田方家臣を切腹させ、信長の情報操作の策に引っかかり義元は情報戦で必要な情報源を無くす、だがいまだに信長家臣団には潜在的な裏切り者がおり信長は警戒していた。
奥の部屋で一人の信長、部屋にどこからとも無く声がする。

「殿」
「どこの話じゃ?」

間者のようだ、姿が見えない相手に信長が聞く

「沓掛の簗田雅綱様からのご報告」
「話せ」
「義元は今…」
「武功夜話」によれば、信長は間諜(スパイ)を五十人も沓掛城周辺にばらまいていた蜂

賀小六や前野将右衛門といった川並衆たちがこれである。さらに決戦直前には、義元の進軍経路である海道沿いには十八人を配置して逐次今川方の動きを把握し、この状況の中で信長は一世一代の大勝負の作を労じた。沓掛の豪族・簗田雅綱に極秘裏に情報戦を命じていた。

「ふむ、話は分かった。
簗田に引き続き敵の斥候を捕らえ殺せ、こちらの動きを分からすな」
「御衣」

間者の報告は終わり部屋から気配が消え信長は一人じっと考え込む
信長は沓掛城を地元に持つ簗田雅綱に調略を命じていた。
簗田雅綱は鳴海の地に詳しく、また一族郎党もその地におり情報網が隅々まで目が届き、沓掛城にいる今川義元の動きを報告させていた。
また間者や前線の家臣に本陣が尾張攻略の為にどこに陣取るか分かるまで誰にも分からぬように義元側の斥候を捕殺して信長の動きを漏れない様に十分な配慮をしていた。
今川側の動きを把握し機会を待つ、織田信長の勝利は奇跡と言われるが、信長は慎重な情報戦を勝利し戦に至る。

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=桶狭間の戦い=

●信長方の兵力

【本隊】織田信長(総大将)
池田恒興河尻秀隆前田利家柴田勝家長谷川橋介
林秀貞佐々成政金森長近森可成佐脇藤八毛利秀頼
岩室重休簗田政綱(本隊二千)

【氷上山砦・正光寺砦・陽動隊】正光寺砦・佐々政次、氷上山砦・千秋四郎三百(全滅)
【丸根砦守備隊】佐久間盛重(四百ほぼ全滅)
【鷲津砦守備隊】織田秀敏飯尾定宗飯尾尚清(六百ほぼ全滅)
【善照寺砦・中島砦】佐久間信盛佐久間信辰梶川高秀梶川一秀(千七百ほぼ全滅)
【丹下砦】水野忠光
合計約五千である。

●今川方の兵力

【駿府城留守居】今川氏真(今川家当主)

【本隊】今川義元(総大将・前今川家当主)
松井宗信朝比奈親徳庵原之政松平政忠井伊直盛朝比奈秀詮
庵原忠縁松平宗次蒲原氏徳久野元宗庵原忠春関口親永
三浦義就久野氏忠藤枝氏秋長谷川元長由比正信吉田氏好
一宮宗是富永氏繁岡部長定江尻親良斎藤利澄飯尾乗連
(五千)
【本隊先発隊】瀬名氏俊

【丸根砦攻撃隊】松平元康(徳川家康)石川家成酒井忠次(一千)
【鷲津砦攻撃隊】朝比奈泰朝井伊直政本多忠勝本多忠真(二千)
【鳴海城守備隊】岡部元信山口教継(三千)
【大高城守備隊】鵜殿長照(二千)
【沓掛城守備隊】浅井政敏近藤景春(千五百)
【清洲方面展開】葛山氏元葛山信貞(四千五百)
合計一万九千である。

1560年6月19日3時頃
この季節の日に出の夜明けに清洲城に各所から救援の要請が入る。

「松平軍勢が丸根砦を攻略中、また鷲頭砦に朝比奈・井伊の軍勢が寄せており、両砦から救援をとのこと」

大高城から松平元康は手勢千名と織田軍の丸根砦を攻略開始、大高城は鵜殿長照が守備、朝比奈泰朝・井伊直政は二千のが鷲津砦に攻撃を開始、鷲津砦の織田秀敏、飯尾定宗、飯尾尚清は籠城の知らせが清洲城の家中が騒いだ。

「殿一大事にて! 今川の大軍勢で丸根砦・鷲津砦に攻略のよしに。
すぐにでも両砦に救援をとの知らせが」

報告を聞き信長の周りにいた家臣は言葉が止まり

「いや、篭城の準備をし迎え撃とう」
「ばかもの!! 篭城しても、今の我が軍に誰が助けに誰が来る? 応援あっての篭城だ! 武田・北条とも今川と同盟を結び、今川の後方は安泰じゃ、我が軍は孤立無援じゃ。
こうなれば討ってでるしかないであろう!」

この今川の大軍勢の前に織田家内部では清洲城に篭城か白兵戦かで揉めていたが、そのとき清洲城の軍議の場に影の様な男が現れの信長の耳元で呟く

「今、義元の本陣は…」

いつの間にか騒いでいた重臣も信長の耳元で囁く男に気づき口を閉じ信長を見る。影の様な男の報告を聞きを満足げに伺い

「引き続き報告せよ」
「はっ」

男は現れたときと同じく影の様に去っていく、信長に重臣達に信長は伝えていないが今川義元の動きを把握していた。

「殿、どのような御報告でしたか?」

家臣の一人が信長に聞くと、信長は

「今は言えぬ、だが我に策あり、時来るまで皆待て」

軍儀の場が静まる中、家臣の一人が信長に聞く

「殿のお考えは、丸根、鷲津の両砦は見捨てか?」
「くどい! 二度も言わすな今は待て」

松平元康(徳川家康)などの先鋒隊が、丸根、鷲津の両砦攻略に向け、沓掛城を出陣し攻略に取り掛かったと注進あったが、だが信長は義元の本字が分かるまで動かず、今川軍の戦列を伸ばし敵本陣を前線に誘き出す為に自軍の砦を犠牲にした。

それから一刻の時がすぎ運命が動く、ついに信長が待った間者からもたらせられた。

「沓掛の簗田から今川義元は戦の指揮を取るために出陣との報告」

この戦いは本来、今川方に帰属していた尾張の鳴海城・大高城が信長が築いた付城のため苦境に立たされている状況を打破するために義元は駿河城から出陣した。
戦況は今川方に有利、そこで他の砦や城を攻略する今川方のは陣将兵の働きを監視するに今川義元が本陣が沓掛城から出陣したと聞き、膝を叩き立ち上がり

「でかした! 引き続きどこに陣取るか義元の行方を追え」

後世には寡兵を持って奇襲をかけ大軍に勝ったと有名な『桶狭間の戦い』
実のところは違う、確かに信長は危ない掛け出ていたが、それは綿密な情報戦を制し、策を持って自領の城や砦と将兵を捨て駒にしながら敵の戦列を長くさせ、即座に連携や救援が出来ぬようにし、敵の今川本陣と攻略部隊の距離を取らせ、敵今川本陣を孤立させ手薄にし、最終的な局面において敵今川本陣より多くの精兵を持って決戦を挑む信長の一成一代の陽動作戦

「誰か太鼓を持て、出陣の前に舞を舞う」

午前五時半に信長は清洲城で敦盛を3度舞う

「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 一度生を得て滅する者のあるべきか」

舞い終わると信長は顔を高揚させ

「我が運命は、この戦いにあり、皆のもの出陣じゃ!
鎧を持て! 法螺を吹け! 具足をよこせ! 熱田神宮に軍を集めさせよと伝令を出せ!」

岩倉城、勝幡城等尾張領内で清洲より北や西にある諸城に対して伝令を発し小姓や側近を呼び、家臣に命令し、家臣達は急ぎ戦支度をする為に方々に散っていった。
信長の命の通り、すぐに出陣の法螺貝を吹くと共に信長は鎧を身に着け立ったまま食事をし兜を被る。
敵、義元本陣の位置が分かった以上、ここからは自軍の裏切り者に裏切る隙を与えず策を成功させる為には時間との戦い

「誰か!馬を引け!」

引かれてきた馬に信長は飛び乗ると

「ついてこれるものだけ付いて来い!」

信長は清須を飛び出し出陣五人の小姓集が慌てて主君信長の後を追い熱田神宮まで一気に駈ける。

1560年6月19日午前8時
源大夫殿の宮(上知我麻神社)から東方を見ると、鷲津砦・丸根砦の両方面から黒煙が上がり両砦の陥落が見えた。この時信長に従う者は、その数、六騎と雑兵二百。

『桶狭間の戦い』以後の信長は常に相手より同等または大軍を持って布陣し戦う、たとえ少数を持って大軍に勝ったとしても、その策は非常に危険に満ちており、その戦い方は軍勢と国力を消耗させ、後々自らの危険を招くと信長は理解していたのだろう。だが信長の最後は本能寺で、皮肉にも桶狭間と同じような小規模の自軍勢の時に明智光秀の大軍に囲まれ、他の自軍との連携ができず孤立無援の中で生涯を閉じた。

熱田神宮の近くで信長は立ち寄り止ると、小姓や側近が追いつき信長に声をかける

「殿、熱田神宮はもうそこでございます。 いかがなされた。」

信長は馬を降り竹の水筒を取り出し水を飲み惚ける様に言った。

「我に策がある。皆のもの面白いものを見せようぞ」

主だった軍勢が熱田神宮に揃ったと報告を聞き馬を進める熱田神宮に馬を進める


この時も信長は事前に用意周到に仕組んでいた、熱田神宮の社前で馬を停めた信長が、願文を神前に納めて戦勝を祈ると白鷺が二羽飛び立った。
将兵達は飛び立つ白鷺を見て

「吉兆ぞ吉兆ぞ」

と家臣と軍兵が口々に言うのを見

「そうぞ白鷺が飛ぶわ、織田の戦勝を熱田の祭神がこれを聞き届け飛んだぞ!」

と笑いながら境内に参拝に向かう、神宮内の戦勝祈願の参拝で賽銭を取り出し付き添う将兵に向かい。

「見よや、賽銭の表が出たならば我が勝利疑いなし」

そう言うと賽銭を高く投げた、落ちてくる賽銭に将兵の注目が集まる。
神妙な顔で受け取り衆目が集まる中、見ると表が出ておりそれを見せながら将兵に告げた。

「見よ表が出たぞ! 聞け! この戦に祭神がついておる。
我が軍の勝利疑いなし! 全軍出陣じゃ!」
「オー!」

と全軍から声が上がり将兵が馬に乗り、槍を持ち整列を始める。

「殿、もし賽銭の裏が出たらどうするつもりでしたか?」

側近が近寄り注意するように言うと賽銭を側近に投げた。

「熱田の守り神の賽銭は両面じゃ」

側近が見ると両面表に張り合わせた賽銭であった。
将兵に分からぬ様に両表の賽銭を取り出し信長が祭り神の勝利を演出した。

「もしかすると、二羽飛び立った鷺も殿が・・・・」

信長は手を振り側近の声をさえぎると

「我に策ありといっただろ」と笑った。

信長は熱田神宮に集まった将兵に戦勝を巧みに祈願を演出し兵の心を奮い立たせる。

信長の熱田出発後まっすぐ東南の善照寺方面に向かわず、一旦南下して上知我麻神社に寄り道し戦況の変化を待つ、戦勝祈願はすでに熱田神宮で済ましているがあえて、丸根、鷲津の両砦が意外に持ちこた報告を受け敵攻略部隊を十分に引きつけ消耗させ、義元本陣に合流する余力削り取る為に、あえて丸根、鷲津部下を捨て駒として見殺し、両砦を救援に必要な軍勢は義元本陣を攻める為の要でもあり自軍を温存し、敵の消耗を待つ、兵の役割配分にも緻密な計算があった信長の戦術は敵の先鋒隊や主力の攻略部隊を消耗・停滞させ最後尾にいる義元の本隊に合流させないことが策の肝要、諸砦の兵の犠牲はそのため

従って、自分の主力が義元本隊に当たる前に、敵の先鋒にぶつかってしまったならば全ては水の泡、信長は主力で義元本陣に決戦をかけ勝利しようと、国境に事前に配置した部隊と要害になる砦は始めからすべて見捨てていた。

これは人数に劣る織田方には勝機を得るため、犠牲の将兵は将棋で言えば敵の王を詰ますための捨て駒のようなものである。

1560年6月19日午前10時
熱田神宮を出陣した信長本隊は、鳴海城傍の浜道を通り近道をして、丹下砦に全速力で向かう。浜道の近道の干潮時に信長本隊が通り抜け、満潮になれば人馬は通れず、信長の動きを察知して動く今川方の軍勢の追撃を警戒しながら、満ち潮に後ろを守られ信長本隊は丹下砦に向かう。

丹下砦を経由し佐久間大学在陣の善照時砦に移動、そこで軍勢二千の精鋭を揃える。

同時刻、鷲津砦・丸根砦が落ち両砦は今川方の軍勢はが入るが、信長本体の動きを聞いても消耗し切った軍勢は応援の余力なし、今川方の戦列が伸びきり連携が出来ない、それは信長の秘策の大軍を分散消耗させ義元を各個撃破するチャンスが到来。

この時点で信長当初の作戦である敵今川方の主力1万4千の軍勢と5千の義元本陣の分断に成功、この時、信長は砦を経由しながら兵力を集めていた。各所から合流してきた信長の軍勢は総勢二千人弱、信長は精鋭二千を引き連れ桶狭間の今川義元本陣にに向かい決戦の時が来た。

1560年6月19日正午
善照寺砦に信長が到着との報告が入り、桶狭間山に陣を据えた今川義元に中嶋砦の前衛で敵の索敵部隊の斥候を排除するため張り出していた正光寺砦・佐々政次、氷上山砦・千秋四郎ら300余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかしこれは勇み足となって逆に佐々、千秋らが、たちまち五十騎が討ち取られてしまう。

義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に更に気を良くし三番の唄を歌い、この時の文人・今川義元は余裕であった。

中島砦の信長本体に報告が入った。先に今川義元本陣に突撃した佐々政次・千秋四郎ら五十の兵が討ち死にの報告を受け、丸根、鷲津両砦の陥落を聞き、信長は憤慨を抑えきれず本体を率い出陣しようとしたが、林道勝・池田信輝・柴田勝家の3人達は信長の乗馬を抑え進言。
「敵は大勢のうえに勝ったばかり、その攻勢には対抗しかねます。一方我が軍は小勢で他に味方もいません、さらに道は狭く、水田の間を一騎づつしか進めません。これでは軍勢が少ないことが、敵からはっきり見えてしまいます。おやめください」
今川義元の本陣に向かうには、善照寺砦から中島砦に移動するのは非常に危険だった、中島の道は脇が深田で足を取られ一騎づつしか縦隊で進むことしか出来ない少人数の様子が敵に丸見えになるため、家臣から反対の声が出たが、ここで信長は乗馬の轡の引手に取り付いた家臣を振り切り憤怒の形相で声を上げる

「皆の者、よく聞け。あの敵兵は宵に兵糧を食べ、夜行軍を行い、大城に兵糧をいれ、鷲津・丸根砦で奮闘し、疲れきっているぞ。
こちらは新手だ。
そのうえ<小軍ニシテ大敵ヲ恐ル、コトナカレ、運ハ天二在リ>ということもある。
敵が攻めれば退き守りを固め、敵が退いたらこれに隣接し攻撃せよ。敵を粉砕するは簡単、だが敵の首を取ってはならぬ。敵の死骸は放置せよ。
この戦に勝ったなら、参戦した者は家の面子であり、末代の巧名となる。ひたすら頑張れ」

家臣が信長のと訓示した言葉を聞いていると、そこに簗田雅綱の間者から沓掛方面の報告が入る。

「義元は大高に向かい桶狭間に移動しました。」

信長は簗田雅綱の間者を家臣と吟味しようとすると、もう一人の患者が入ってきて、この戦いを決定居ずける報告がなされた。

「今川義元、桶狭間にて駐屯セリ」

簗田雅綱は、その言葉を聞き信長に進言

「東軍(今川軍)は瞬時に両砦を落としたため、必ずや奢った気持ちで布陣するでしょう。今、不意に起こって今川本陣を突けば、必ずやよしもとを打ち取ることができましょう」

義元本陣の正確な位置を把握した信長は、これを名案と考えた信長は善照寺砦にあたかも信長本陣がここにいるよう装う為に旗を立て信長は移動を悟られないようにして中島砦に移動した。

移動した中島砦の軍議で慎重に戦う事を家臣達は信長に進言し出陣は見合わせと告げたが、唯一人、今川方の動きの諜報活動をしていた簗田政綱だけが義元本陣に攻撃をかけることを進言、他の家臣が反対するる中その策を信長が採用し、ついに13時ごろ向かい風で折からの雨や風が吹いており視界が効かない中、今川軍に慎重に沓掛の豪族・簗田政綱の誘導でに巧みに桶狭間に軍兵を出す。

だが善照寺砦と中島砦の千七百の軍勢は信長が義元と桶狭間で戦っている間、留守部隊の両砦で篭城し、応援に駆けつけようとする今川方を食い止め、信長本体の防ぐ盾として中島、善照寺の部隊は多くが討ち死にした全滅に近い犠牲を払わされたが今川方の桶狭間の本陣への合流を防ぐ役目を果たした。

全軍で2万を数えた今川軍も、戦闘により様々な方面に戦力を分散させており、今川家当主である氏真の実父の義元を守る本隊は5,000人ほどに過ぎない。

しかも本陣の大部分は兵站を担う補給部隊であり、このとき純粋な戦闘兵は一千ばかり。

それに攻撃をかけるは織田信長は二千の精鋭戦闘兵、ここに策は成功し織田信長・二千と今川義元・一千と純粋な戦闘力を逆転しての決戦となる

そして信長は選り抜きに二千の兵で敵の瀬名氏俊率いる前衛部隊を攻撃、追い風にのった攻撃で勢いに乗り、前衛部隊がたちまち壊滅し桶狭間山の高台に陣する義元本陣に信長の軍勢は桶狭間山の谷沿いの斜面を駆け上がり正面突撃をかけた。

信長の軍勢が山際まで軍兵を寄せたところで、突然の雷になり、敵の顔に雨が打ち付け味方には背中に降りかかり、沓掛の峠の松の元の、楠の大木が雨のために東へ倒れた、この春雷の嵐に戦いが中断、今川義元は信長軍の突撃で乱れた本陣全軍を集結させる。

敵の清洲城攻略部隊や大高城・鳴海城の今川勢の攻略部隊は刻一刻と桶狭間を目指し動いており、特に鳴海城の岡部元信は信長本体の動きに気づいたのだが、鳴海城近辺の浜辺が満潮で軍を出せず、干潮になると共に軍を桶狭間の義元本陣に応援を出すべく時を待つ。
信長は引き返してきた今川勢の攻略部隊の挟撃されないために、信長は時間とも戦っていた。

午後二時頃、豪雨が止み、信長は槍を取り大音越えを上げ

「豪雨が織田方から今川方に向かって吹きつけ、
織田の兵士たちは、皆、"熱田神宮の神戦(かみいくさ)か 懸かれ! 懸かれ!」

と兵を鼓舞し、豪雨で遅れて追いついてきた後続の鉄砲部隊が到着し、鉄砲部隊を信長本体の前方に展開させ、さらに火種を雨で濡らさぬように保持している鉄砲を義元本体に向け
「打て!」の号令で一斉射撃をし、槍の穂先をそろえ全軍で突撃を開始した。

『信長公記』には
「黒煙立てて懸かるを見て、水をまくが如く、後ろへくはっと崩れた」

今川方の本陣五千は大部分は戦闘に不慣れな寄せ集めの兵であり、鉄砲の一斉射撃の大音量と黒煙(鉄砲火薬の煙)に兵は完全に恐怖し、そのあとの織田信長本体の精鋭2,000人が一丸となって突撃する猛攻で、今川方は心理的に劣勢になり大木が自分達の方に向かって倒れてきたことなどもあって大混乱に陥いり、兵站部隊の逃散が止まらなくなり、これにつられて、正規の戦闘兵たちも算を乱して逃げまどう有様。

忠誠心の高い馬廻り衆・三百のみが義元を囲んで踏み止まったが、義元本隊が旗本三百騎が五十に減り、この時の今川方の陣中の慌てようは水をぶちまけたように総崩れになり敗走した。

「弓、槍、鉄砲、旗、指物が散乱し、"算を乱す"という言葉通りだった」

信長も下馬し戦う。乱戦で味方の死者負傷者無数、敵の攻撃を支えきれなくなり、勝てないと悟り他の他の今川勢と合流を図る多為に義元は退却を命じるが、とき遅く双方の大将が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦では逃げる事が叶わず、ついには義元の旗本部隊に信長の親衛隊が突入した。

『信長公記』では、この時の様子をこう記されている。

「若武者共は先を争い、いらつきたる若者どもは乱れかかって凌ぎを削り鍔を割り火花を散らし火焔をふらす、御馬廻り、御小姓衆歴々手負い死人、数知れず」

信長は馬廻り集と共に槍を突き敵を蹴倒し切り捨て敵本陣を進む。
押し寄せる敵から義元を助けようと近づいてくる親衛隊を斬る中で遺棄された義元の豪華な塗輿見つけ信長は叫んだ。

「皆の者、義元の本体はここじゃ!これを攻撃せよ」

このような大混乱で義元は輿を捨て、30騎の親衛隊の部下が円形に取り囲みつつ自身も騎馬で退却したが、信長の馬廻の一人の服部一忠にまず追いつかれて、斬りかかられ、服部の右ひざを斬って負傷させる。

しかし服部との格闘の間に迫ってきた新手の毛利良勝と乱戦になる中で、組み伏せられた義元は、『改正三河後風土記』では、毛利新助が、義元の首を討とうとしたとき偶然、義元の口に左の指を入れてしまい喰い切られたが、ついに毛利によって今川義元は討ち取られる。

義元の戦死により今川軍本隊は混乱・壊滅し、桶狭間の土地は起伏が激しく深田のぬかるみで大変な難所、深田に逃げ込んだ今川勢は、その場で這いずり回っているところを信長軍が追いつき虐殺し、信長手勢は手に手に首を二つ三つと取り清洲城に向かう信長に持参した。

かくして戦国時代を揺れ動かした「桶狭間の戦い」は織田軍の大勝で幕を閉じる。

勝利を収めたのぶだが収めた信長だが桶狭間の戦いで軍勢は消耗しきり余力無く、今川方の残存勢力と殲滅することが叶わなかった。日のあるうちに清洲城に織田信長は形だけの凱旋をした。

この桶狭間の戦いで情報戦を制し今川軍の位置を索敵した簗田政綱が一番手柄3000貫、一番槍を付けた服部小平太が1000貫、義元を討ち取った毛利新助が500貫と恩賞が信長から出る。

この戦いで「東海一の弓取り」である今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ他にも
松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳
などの有力武将を失い今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。今川軍は今川家当主の父で総大将でもある義元を失ったために大混乱に陥り駿河に撤退

岡崎城を守っていた今川軍の城代山田景隆も城を捨てて駿河に撤退し、そこを大高城を守っていた松平元康が合戦直後に大高城を捨て岡崎城近くの大樹寺(松平家菩提寺)に入り、今川方の撤退を見て元康はこれを接収し岡崎城に入城。

尾張・三河の国境で今川方に就いた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込み奪還

しかし鳴海城は城将・岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城せず、三河物語に元信の並々ならぬ今川義元の忠義者として

「武辺と云い、侍之義理と云い、譜代之主の奉公と云、異国知らず、本朝には有り難し」

と記され、岡部元信は織田信長と交渉し開城の条件として、今川義元の首級と引き換えと信長もと堂々に話をつけ開城、義元の首を輿に乗せ、悠々と城を明け渡し、さすがの信長も感嘆した。

岡部元信は駿河に帰る途上、桶狭間の戦いで織田信長への寝返りの姿勢で動いた刈谷城の水野信近(水野信元の弟)に対し、今川氏真は家臣岡部元信にこれを征伐することを命令、岡部はこ伊賀衆を呼び寄せ信近は熊村という村に妾を置いており、そこに通うため城の海岸に近い方は防衛のための人数が少ない。
その事を伊賀者たちは察知、彼らはその方面から城にと忍び入り水野信近を討ち取った。
城の中の者たちも皆殺しにし、岡部率いる軍勢を待つが、二の手の到着が遅れ、この間に城の異変を知った刈谷衆は、家老の牛田玄蕃近長の元にかけつけ、玄蕃、「見れば解ることを大丈夫か?とは、お主達慌てふためいておるぞ!」と一括し、落ち着かせた上で刈谷城に攻め寄せ、味方を待っていた伊賀衆は突然の敵の軍勢に慌て、玄蕃たちは伊賀衆を80余人も討ち取り、城を奪還。
床に置いてあった水野近長の首も取り戻した。

この頃岡部の軍勢もようやく到着したが、刈谷城は既に取り戻され攻める手がかりもなく、そのうち信近の兄・水野信元の軍勢も駆けつけ形勢不利を悟り義元の首を携えて駿河に帰国した。

一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃され別働隊の先鋒として戦い難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から離反、今川氏と敵対して三河の統一を進め父の暗殺で没収された松平氏の旧領回復

桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。

永禄5年(1562年)松平元康の叔父にあたる水野信元は織田信長と元康の同盟を成功させ、この清須同盟により信長は松平氏との講和により東から攻められる危険を回避し、以後は美濃の斎藤氏との戦いに専念し急速に勢力を拡大させていった。

桶狭間の戦いがあった西三河・尾張の国境の領地を持つ水野氏族の台等は目覚しく、清須同名を成功させた水野信元、鷲塚城を建て松平元康の配下として一向一揆を治めた水野忠重、昨日まで今川義元が天下統一すると思われた世が再び群雄割拠の戦国模様となり、三河戦国地帯の状況の中で物語の主人公である水野勝成が産声をあげ登場と相成ります。

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